戦後間もない1946年3月16日、歌舞伎役者・12代目片岡仁左衛門一家5人が殺害された事件をご存知でしょうか。
この事件では渋谷区千駄ヶ谷の仁左衛門の自宅で、仁左衛門(65歳)と妻の登志子(26歳)、三男の三郎(2歳)、お手伝いの榊田はる(69歳)、子守の岸本まき子(12歳)の5人が斧で殴られ亡くなっています。
片岡仁左衛門一家殺人事件として今も記憶に残るこの悲惨な事件の犯人は誰なのか、また動機は何かについて調べてみました。
この記事では
・片岡仁左衛門一家殺人事件の犯人は誰?
・片岡仁左衛門一家殺人事件の動機がヤバかった!
こちらについてお伝えしたいと思います。
ぜひ、最後までごらんください。
片岡仁左衛門一家殺人事件の犯人は誰?

片岡仁左衛門一家殺人事件の犯人は、座付きの作家兼お手伝いの男、飯田利明(22歳)だったことがわかっています。
元々飯田の父親が、片岡仁左衛門の座付き作家だった縁があり、戦後両親を失った飯田の妹である岸本まき子が子守りとして片岡家に入りました。
(妹と苗字が違うのは飯田が岸本家から飯田家に養子に出されたためです。)
その後、妹しか身寄りのない飯田も座付きの作家見習い兼お手伝いとして、片岡家を頼って身を寄せます。
時代は戦後、食べる物もろくにない頃で配給もままならない状況でした。
そんな中仁左衛門の妻、登志子は米櫃に鍵をかけ、使用人には少しの米しか与えなかったと言います。
煮炊きも、片岡家の家族は電気釜で米を炊きおかずを揃えて食べるのに、使用人は縁側で薪で煮炊きをし天井が反射するほど薄いお粥を食べていたといいます。
空腹に耐えかねた飯田は、なけなしのお金で闇市で食料を買う事もあったようですが、当時多くの人達がそうであったようにひどい栄養失調だったようです。
近所の人が同情してご飯を食べさせてくれることもあったが、「外聞が悪い!」と登志子夫人に叱責されたといいます。
だんだん仁左衛門にもきつく当たられるようになり、配給の酒やタバコも取り上げられ、子守ばかりさせられて学校にも行かせてもらえない妹のことなどもあったため、飯田の一家に対する不満は高まっていきました。
事件前夜は、登志子夫人に「今後(飯田の)食事は米ではなくメリケン粉にする」と言われた飯田は口答えをし、片岡夫妻と言い争いになってしまい、仁左衛門に「今夜中に作品をひとつ書いたらお金を渡すから出て行ってくれ」と言い渡されます。
飯田は4月興行の作品を書き仁左衛門に渡しましたが、「これでも作家か!」と原稿を投げ捨てられてしまいました。
布団に入ってもむしゃくしゃして眠れず明け方6時頃トイレに起き、立てかけてあった斧につまづいてしまいます。
飯田が煮炊きように使っていたその斧を手に取り、片岡夫妻が眠る部屋へ行き仁左衛門、妻の登志子、三男、お手伝いの女性、子守りとして働いていた実の妹を次々と殺害しました。
飯田は、事件の2週間後、宮城県川渡温泉の越後や温泉に宿泊していたところを逮捕されています。
また、飯田はその後の精神鑑定で心神耗弱の状態にあったという事で、無期懲役の判決を言い渡されています。
片岡仁左衛門一家殺人事件の動機がヤバかった!

さて、飯田利明をこの凄惨な犯行に駆り立てたものはなんでしょうか?
それは怨恨だといわれています。
一家を殺害した後、飯田は平皿にご飯も盛りザラメをかけて食べています。さらにおかずもふた皿食べた形跡があり、駆けつけた刑事はすぐに「食の恨み」だと直感したといいます。
十分に食事を与えてもらえず、きつく当たられ続けどんどん一家に対する恨みを募らせていったようです。
特に登志子夫人の顔は損傷が激しく特に恨みを持っていたとみられています。
なぜ、実の妹まで手をかけてしまったのかという取り調べに対して飯田は「勢い余って」と答えたようですが、妹が自分のことを片岡夫妻に告げ口をしていると思っていたようです。
ただ、この動機に関しては続きがあり、当時3歳だった仁左衛門と登志子の娘である片岡照江さんが、次のような証言をしています。
まず、I田の犯行動機である“食べ物の恨み”というのが間違いです。わが家では住み込みの人たちとも区別せず食事をしていましたし、父は知人の遺児であるI田を気にかけていました。本当の動機は単純にお金だったんです
引用元:Yahooニュース!
片岡照江さんは、犯行動機が食べ物の恨みというのは嘘だと述べています。
また、父親の仁左衛門が飯田を気にかけて、食事も同じものを一緒に食べていたと証言していますね。
手紙には“弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった”と、書かれていました。しかし報道で“食べ物の恨み”と散々書かれたことで、世間からは“住み込み人に食べ物を与えず恨まれて、殺された人の子”として、無視されたりいじめに遭いました
引用元:Yahooニュース!
さらに、数年後照江さんの元に届いた飯田からの詫び状には、「犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした」と書かれていたといいます。
飯田からの詫び状は、事件の資料として新聞記者に渡した後帰ってこなかったため、事実を示す証拠が残っていないということです。
さいごに
今回は、1946年3月16日に起きた、片岡仁左衛門一家殺人事件についてまとめてみました。
いかがだったでしょうか。
戦後間もない日本で起きたこの事件は歌舞伎界を揺るがす大きな事件となったことは間違いありません。
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