1923年(大正12年)、千葉県福田村(現・野田市)起きた残虐な事件『福田村事件』を取り上げたいと思います。
ちょうど100年前の千葉県野田市で、実際に起きたこの事件の概要や加害者について調査してみました。
この記事では
・福田村事件の加害者は誰?
・福田村事件の加害者の名前や子孫は公開されている?
こちらについてお伝えしたいともいます。
ぜひ、最後までごらんください。
福田村事件の概要
まず、初めに福田村事件について見ていきましょう。
1923年9月1日、関東大震災が発生しました。
関東一帯は、混乱に乗じて治安が悪化し
朝鮮人が襲ってくる。
朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んでいる。
などのデマまでが流れ始めました。
千葉県にも厳戒例令が敷かれ、朝鮮人を取り締まるための官民一体となった自警団が結成されました。
関東大震災の5日後の9月6日、香川県からやって来た薬の行商集団15名は、利根川の渡し船に乗るために三ツ堀に到着しました。
15名のうち9名は、利根川の渡し船の料金を交渉し、足が不自由な者や子供たちなど残りの6名は近くの神社の鳥居で休んでしました。
行商人たちは香川の方言があり、このことで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか?」と疑いをかけられ、瞬く間に自警団が集結しました。
集結した自警団は隣村の田中村からも押し寄せ、200人にも上るといわれていますが、大震災の直後である事と、集団心理が働き、異様な興奮状態だったことが推測されます。
福田村の村長が「行商人たちは日本人だ」と自警団を止めようとしましたが、自警団の興奮はおさまらず駐在の巡査が本署に問い合わせに行くことになりました。
この巡査が現場を離れた直後、事件は起こったのです。
200人にも及ぶ自警団は9人の行商人たちに襲い掛かりました。手口は残忍極まりないようなものでした(参照:https://newsee-media.com/fukudamura)。
- 鳶口で斬りかかる
- 乳児を抱いている母親を竹槍で襲う
- 利根川を泳いで逃げた人には船で追いかけ手に本当で斬りかかる
- 銃撃する
襲われた9人の行商人たちの遺体はそのまま川に流され遺骨も見つかっていません。
一方、鳥居で休んでいた行商人たちは、針金や太縄で拘束された状態で利根川に流されそうになりますが、、本署の部長と駐在が馬で戻ってきて事件を止めたため助かっています。
現場では「バンザイ!」と叫ぶ声が響き渡り、異様な光景だったことが窺われます。
福田村事件の加害者は誰?

さて、この事件の加害者についてですが、集まって襲撃に加わったのは、福田村(現・野田市)と隣接する田中村の200名の自警団です。
その中から検挙されたのが福田村、田中村からそれぞれ4人ずつ。
この8人が騒擾(そうじょう)殺人罪に問われましたが、郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張しており、当時の予審判事は「量刑は考慮する」と語っていたようです。
実際に降った判決は以下の通りです。
田中村の1名→懲役2年、執行猶予3年
残り7名→懲役3年〜10年
しかし、受刑者全員が、確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位の恩赦で釈放されました。
また、中心人物の1人は後に、田中村の村長になり、柏市に合併後は市議も務めたとされています。
福田村事件の加害者の名前や子孫は公開されている?

加害者8名の名前はこちらです。
- 岡田孝一
- 田中朝吉
- 木村熊治
- 横銭朝吉
- 増田吉太郎
- 酒巻右衛門
自警団は、200人いたとされており一体誰がどうしたかは、混乱の中でわかってはいないと思われますが、この8人が中心的な人物だったのでしょう。
関東最震災で甚大な被害を受け、恐怖と不安に支配される中で、巻き起こったデマ。
異常とも言える精神状態の中で、村を守る一心で殺戮に駆り立てられる人々、何もかのが普通ではない状況で、起きた残忍な事件です。
8人の逮捕者たちは、普段は良き夫であり良き父親だったといわれています。
常識的な人物が、このような事件を起こしてしまうような時代背景と集団心理を考えると、人間の持つ闇の深さを考えてしまいます。
さて、この8人にはもちろん子孫はいると思いますが、子孫に関する情報は見つけることはできませんでした。
さいごに
今回は、100年も前に起きた残忍な事件、福田村事件についてリサーチしてみました。
加害者の名前、子孫などについて調べてみましたが、いかがだったでしょうか?
最後までごらんいただきありがとうございました。
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